学問研究の手法

知識偏重主義を反省してできた「ゆとり教育」は提唱され始めてから10年足らずで破綻してしまった。 それは,学力を測る手段が知識量を測る手法が一番わかりやすいためである。 もちろん,学校の役割の一つは知識を伝えていく場所であるということは認める。 しかし,もう一つの大切な役目は,私たちの世界がどのようになっているかを学ぶことだ。 前者は,これまでやってきたことなのでやさしいことである。しかし,後者はなかなか大変なことだ。 どうすればいいのか?まず,学校は,今までの知識の伝え方だけでは解決がつかないことに気が付くべきだ。 この知識の伝え方を考えるのはなかなか大変なことだ.

知識を伝える方法には二つある。「知識を伝える」という言い方には誤解があるので,「学校で学ぶ方法」には二つあると言いかえよう。 それは「分析的学習方法」と「総合的学習方法」である。 前者は理科に代表され,後者は美術に代表されるかもしれない。 「かもしれない」というのは,どの教科も「分析的学習方法」と「総合的学習方法」との二つの要素が組み合わされながら学習していくからである。 すなわち,どちらの学習方法で代表されるわけではない。

さて,もう一歩正確さを追求するために,上の二つを「分析的研究方法」と「総合的研究方法」と言い変えよう。 「分析的研究方法」は実証主義という哲学理論を基にしている。 「総合的研究方法」は社会構成主義という哲学理論を基にしている。 実証主義とは,地球上のすべてのものを細分化してジグゾウパズルのように並べてみたと仮定して,もう一度組み立てなおすと元の通りになるという考え方だ。 社会構成主義とは,人と社会との関係を基にしながら総合的に物事を見ていくという考え方だ。 例えば,よく引き合いに出される例なのだが,水を分解すると水素と酸素に分けられる。水素は自らが燃えるもの酸素は他を燃やすもの。 ところが,水は火を消すものである。分解したがために水の性質は分からなくなってしまう。 雪融け水。小川のせせらぎ。集中号等々,人間生活の中で,水は水として観察するがゆえに水のことが分かるという考え方が社会構成主義である。 しかし,水が水とは全く異なる水素と酸素からできているなどということは分子のレベルまで分析するからこそわかることでもある。 これが,実証主義である。分析して得る知識や技能は実証主義の考え方を基にしている。

学校が,知識・技能だけで生徒を判断することに警鐘を鳴らした人がいる。 社会心理学者でもあり哲学者でもあるエーリッヒ・フロムというドイツの学者だ。 彼は,「実証主義は確かに世界を説明してきた。そして,実証主義は生徒たちに物事を知るには分析することがすべてあると教えてきた。 分析が世界を知る方法だと我々に教えてきたのである。 しかし,我々が我々の世界を知るのに分析しないで世界を学ぶことはできないのであろうか。」と提言している。 もちろん,そんなことはない。先ほどの,水の話を考えればわかることである。 フロムは,「人は分析することにならされてきてしまった。その結果,分析しなければ,物事の真理を明らかにできないのだと信じ込んでしまっている」とも語っている。 フロムは,分析的手段は時として生命をもぎ取ってしまうことがあるとTennysonの詩と芭蕉の句を比較してしている。
                 Flower in a crannied wall,
                 I pluck you out of the crannies,
                 I hold you here, root and all, in my hand,
                 Little flower ? but if I could understand
                 What you are, root and all, and all in all,
                 I should know what God and man is.
                                          (Tennysonの詩) Fromm: 1976, p.16
芭蕉の詩はフロムの英訳で見てみよう.
                 When I look carefully
                 I see the nazuna-blooming
                 By the hedge!
                                          (芭蕉の句) Fromm: 1976, p.16
Tennysonは,花を「根こそぎ花を摘んで」西洋の科学者が取る方法でその花のことを学ぼうとしている。 その代償として,花の命は奪い取られてしまう。 もちろん,フロムは,人々や自然を学ぶ態度について象徴的な意味で言っているのであるが,Tennysonと芭蕉の花の観察の方法は明らかに違うとフロムは言っている。 Tennysonは,神と人間との本質を探究するための知的好奇心を満足させるために花を根こそぎ取り花の命を奪っている。 フロムはこれは西洋の科学至上主義を作り出した実証主義的考え方そのものだと言っている。一方,芭蕉は花を摘もうという気持ちは全くない。 芭蕉は,花に触れさえもせず,ただひたすら,注意深く観察しているのである。 Tennysonは,この世界を知るために花を所有するという手段を選んだ。 芭蕉は,この世界を知るために花を観察するだけではなく,観察するためにそこに咲かせておいているのである。 フロムは,この両方の詩を例にとり,分析的手段だけでは,我々人間をそしてそれを取り巻く世界を正しく説明できないと言っているのである。 我々人間とそれを取り巻く社会をそのまま観察するがゆえにわかる心理もあるという考え方が社会構成主義の基本である。

元に戻ることにしよう。分析的学習方法だけでは我々は物事を学ぶことはできず,総合的学習方法もまた大切な学習方法であるということである。 ただ,残念なことに後者の学習方法が体系的に開発されていない。 そのため,生徒の学力を測るには分析的方法,すなわち,知識・技能の量を測る方法でしか考えられていないのが現状である。 英語学の世界では,分析的研究方法と総合的学習方法による分野の住み分けは確立されている。 我々にしか耳慣れないかもしれないが,前者はチョムスキーが開発した生成文法であり,後者は意味の伝達の仕方を研究する語用論や社会言語学である。

  


 


2010/09/15

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