・アパート 〜その2

 住み始めてひと月目に事件が起きた。一つ置いて隣が火事になった。この日は、学部長恒例のパーティに招待されて遅く帰ってきたら、一軒隣が火事になったと聞かされてびっくりした。 私のアパートに燃え移っていたらパスポートに始まってすべてを失っていたところだ。さらにひと月後に二つ目の事件が起きた。後から考えてみると、私にとって二つ目の事件であって、このアパートには日常的に事件が起きていたのだ。 大学から帰ると 3 階の自分の部屋の前の廊下が水浸しになっていた。その水は私の部屋の隣のコインランドリー室からきていることがわかった。 ものすごい勢いで流れてくるので、ランドリー室を覗いてみたら、水道屋が洗濯機に排水するパイプと格闘していた。何事かと尋ねてみると、このアパートに住んでいる住人がコインを盗むのに洗濯機を壊してしまったということだ。 水の勢いがすごくて、ドアの境を越えて私の部屋に入ってきそうになっていたので、あわててタオルを取ってきて水を吸い取った。汗だくの作業でとんでもない目にあった。 三つ目の事件が、またひと月しておこった。部屋にいて本を読んでいると、突然、非常ベルが鳴った。これまでの私の人生の中で非常ベルが鳴って非常だったためしがなかったので、一応確かめるつもりでドアを開けて廊下を見た。 煙が下の階からモクモクと上がってきていた。これは大変と思い、近隣の部屋に知らせるため「火事だ!」と叫んだ。そうしたら、その煙の発信元の方から「なんでもないから騒ぐな」と怒鳴ってきた。 非常ベルが鳴って煙が廊下に充満し始めているのに「なんでもないから騒ぐな」とはどういうことかと思ったが、パスポートお金を持って外に避難した。 やがて消防自動車やら救急車やらパトカーが来て辺りが騒然となったが、結局アパートから火の手は上がらなかった。 後からわかったことだが、マネージャーの子供が空き部屋で友人と大麻を吸って遊んでいるうちにボヤを出したと聞かされたが、疑問が残る事件だった。 ここまできたら、そろそろアパートを変えることを考える必要があると思ったが、また、探して歩くのかと思うと面倒だった。しかし、ついに決定的な事件が起きた。起き続けたのかもしれない。 私の部屋の下の住人が男二人で住んでいるらしいのだが、毎晩のように激しい口喧嘩をするようになった。それは、並大抵の喧嘩ではない。口論と取っ組み合う音が毎晩のように聞こえてきた。 そのうち、撃ちあいでも始まるんじゃないかといういきおいである。それに加えて、毎日のように、このアパートの前にパトカーがとまり始めた。私は出ることに決めた。 コマーシャルドライブを歩いているとバス停近くに白塗りのアパートに「空き室アリ」の看板が立てられていた。それをみて、すぐにマネージャーにコンタクトをとり、内金も払って契約をした。 3 月 30 日から入居できるといわれた。 それまで 10 日あったが、 3 月 25 日から荷物を入れてもいいと言われた。今住んでいるアパートから 200 メートルくらいしか離れていない。今のアパートには、誰かが勝手にスーパーから持ってきたキャスター付きのでかい買物キャリーケースがある。 これで、 200 メートル先のアパートまでせっせと往復して運んだ。ベッドとか机は友人のマイケルが引っ越し用のレンタカーで運んでくれた。このアパートを出ることをオーナーに告げると出ていかないように懇願された。 「部屋が 36 室あるんだけど、家賃を払ってくれているのは半分だけ。佐藤はその一人で出て行かれたら困る」と言われた。そうは言っても、このアパートは事件が多すぎると言ったら、「この地区から出ていかない限り、どこに行ったって同じだ」と言った。 それも一理あると思ったが、とにかく一秒でも早く出たかったので、引き止められるわけにはいかなかった。 次のアパートは、 1 階にあるという点を除いては、申し分のない快適さだったし、住人もおかしなのはいなかった。 利便性は前のアパートよりも良かった。バス停がすぐ目の前にあるのだ。これで、大学へにも街に出かけるにも最高の場所だった。しかし、 2 日後に事件は起きた。バスの組合が 4 月 1 日からストを始めたのだ。 ニュースでストが始まるのは知っていたが、 2 ・ 3 日で終わるだろうと思っていた。しかし、 1 週間たっても終わらなかった。 1 カ月しても 2 カ月しても終わらなかった。終わったのは、 8 月 10 日。私の帰国の日が 8 月 17 日だった。 アパートのすぐ前のバス停の恩恵を受けることなく帰国とあいなった。ストの間は、大学までのヒッチハイクが許可された。カナダやアメリカはヒッチハイクは非合法とされているが、 SFU と書いた紙を持って路上に立つのは許された。 私を客員教授に迎え入れたイアン・アンドルーズ教授の秘書に乗せてもらったり、ヒッチハイクをしたり、タクシーを捕まえて大学に通った。夏休みに入っても、集中講義を見つけて滞在できるうちに講義の単位はできるだけたくさんとることにしたので、毎日大学に行かなければならなかった。 私の専門は、英語学なので慣れない教育学や哲学の授業に泣かされたが、反面、新鮮でもあった。 (続く)


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