またまた留学の思い出

 日本人学生の留学数がピーク時の4割になったという。これは,不況が理由ではないと思う。 何かが変わったのだが,その何かが分からない。私は,留学生活を通して本当に貴重な時間を過ごした。 だから,一人でも多くの学生が留学することを願っている。

私が初めて米国に行ったのは,1982年の8月であった。 ロータリー財団の奨学金をもらうことになっていったのだが,当時は,世界中に散らばっていく留学生が, 一旦,米国のジョージア州ステイツボロ市にあるジョージア・サザーンカレッジに集まって1〜2カ月の研修を受けて, それぞれの留学先に行くことになった。 ここでは,京都大学からの工学部博士課程の学生の戸田さんや当時日本には9人しかいないという若い脳神経外科医の女医さんと友達になった。 傑作だったのはドイツ人のルームメイトだ。自分をエリートと言ってはばからない若い学生であった。 ある日,全員が寝入ってから非常ベルが鳴った。そうすると, そのドイツ人のルームメイトは自分のベッドのそばにあるスーツケースを持って脱兎のごとく廊下を走って逃げた。 それはいいのだが,びっくりしたのは寝ている私を一度も起こそうとしないで自分一人で逃げたことである。 それ以来,ドイツ人は信用しなくなってしまった。

このロータリーの研修では「Be on time」ということを異常に唱える先生がいて,講義が始まると教室の中から鍵をかける先生だった。 思い出にはなったが,大した立派な先生とは思わなかった。しかし,退屈な一月でもあった。 おかげで,戸田さんと女医さんとは仲良くなって週末には近くのレストランに食事に行って,取りとめもない話をした。 その後戸田さんはアイオワ大学に行き,そこでPh.D.を取得する。 女医さんはカルフォルニアの大学病院で研修することになっていたが,その後は連絡を取り合わなかったのでわからない。 もっときちんと連絡を取り合っていればよかったと思う。私はここでの研修ののち, 札幌のインターナショナルスクールの校長先生をしていたグリッド夫妻の家に2週間ほどお世話になる。 場所は,ミシガン州のアッパーペニンシュラである。夏ではあったが平均気温が17度のところである。 8月の平均気温35度になるジョージア州から行ったら寒いくらいだった。アメリカは広かった。 ここではアメリカの田舎暮らしを体験した。店は一軒しかなく,チェックを現金に換えてくれる唯一の場所だった。 車の修理工場も一軒しかなく,車が壊れたら,その工場にある山のように積んであるガラクタのような山から部品に近いものを探し当て直してしまう。 その他のありとあらゆることは自分たちで全部やる。たくましい国民だと思った。

9月になって,以前にコーヒーブレイクに出したオハイオ大学での留学生活が始まった。 プレイスメントテストも無事済みLinguisticsの修士課程に入学した。留学の試練でもあり,人間的にも育つことになる, 必ず何ヶ月かおきに来るホームシックを経験し始めた。私は当時32歳であった。 中学校の教師を8年経験してこのオハイオ大学に来た。日本には生まれて2歳になったばかりの息子を置いてきている。 息子を抱きしめる感触が無性に懐かしくなったりした。しかし,この留学は来たくて来たくてやってきたものである。 今更,家に帰りたいなんて口が腐っても言えない。以前,コーヒーブレイクで話したブルースやフィリップやリンダと つるんで食事を作りあったり宿題を手分けしてやるまでにはまだ4か月あった。彼らは,まだクラスメイトの一人一人にすぎなかった。 1982年当時はインターネットなどというものはなかった。日本の新聞は3日遅れで図書館で見ることができる。 しかし,日本の新聞を見ることは危険なのだ。端から端まで読み,その結果,ホームシックが始まる。 ホームシックになると何にも手につかなくなる。そうなっても明日までの予習や宿題は容赦なく襲ってくる。 一度は,機嫌よくLinguisticsの建物ゴーディホールの向かいにあるオアシスという名の喫茶店でハンバーガーを食べにいたら, 北島三郎の「与作」が聞こえてきた。大学の放送局に日本人でもいるのかもしれなかった。 なんで,こんなところで与作を聞くのだと思っていたが,そう思っている最中から気持ちが沈んでくるのがわかった。 慌てて図書館に行って勉強を始めたが手遅れだった。まもなくして何にも手につかなくなった。 そんなときの克服方法は,日本の小説を読むことである。寝るのも忘れて読む。 夜が更け,夜が明けて講義に行く時間が近づき,シャワーを浴びて出かける。 そんなことを繰り返しているうちに3日くらいで自分を取り戻すことができる。 こんなことが自分一人でできるようになるのも学位をとったり知識を深く身につけたりすることと同じくらい貴重なことである。 アメリカ人で最初に友人になったのは,ジョージ・ケルトスである。 これは,アメリカ人学生と友達にならないととんでもないことになるという経験をしたので,クラスの中から友達になれそうなジョージに近づいて行って友達になった。 その後,我々はいろいろな経験をすることになる。以前に書いた,飛行機を乗り間違えた話にも登場する友達である。 なぜ,アメリカ人の友人が必要だと思ったかというと,最初のThanksgiving Dayのことだった。 構内のあらゆるところに「市内のすべての場所がcloseします」という張り紙が貼ってあった。このことにタカをくくっていた。 当日,11月25日は,ほんとにありとあらゆるところが閉まっていた。腹がすいても店が開いていない。 その時は寮に入っていて一切の煮炊きが禁止されていた。部屋に冷蔵庫なんてない。その時に限って,食料になるものは一切置いていなかった。 不覚と無知以外の何物でもなかった。アメリカ人家庭では,この日は七面鳥を食べながら感謝祭のお祝いをする日である。 この街では,ありとあらゆる人が仕事を休んで,外を歩いている人間など誰もいないのだ。 結果として,この日は一切何も食べないで次の日を迎えた。

次の日は,ハンバーガー屋に行って気持ちを落ち着けてから,図書館に行った。そこではジョージがアルバイトをしているのを見つけた。 バイトを終えたら,一緒に夕食を食べに行く約束をした。 地獄で仏にあったような気持ちになっていた。当時オハイオ大学はThanksgiving Dayから1月2日まで大学は休みだった。 この街は学生街であったので,ほとんどの学生は自宅に帰っているのでゴーストタウンになっていた。 そのおかげで,二人でつるんで遊んだおかげで,仲が良くなり,クリスマスにニュージャージーの自宅に連れて行ってくれた。 初めてNYCを見て自由の女神を見ることになった。

とりとめのないことを書いてしまったが,留学生活を続けるにはいろいろなことが足を引っ張ってくる。 そんなことを克服することも留学生活の貴重な体験だということだ。
  


 


2010/12/01

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