世界共通語はなぜ広まらないか

 海外研修でUniversity of Washingtonに来ている学生たちのclosing ceremonyに出席したときの学生の一人の話である。その学生のホストマザーがある世界共通語を広める運動をしているのだという。その学生も誘われたのだが,何かの宗教かと思って怖くて参加を断ったそうだ。それで,私にそれって変な宗教じゃないのかと質問してきたのである。これまでに,世界を共通語で意思疎通ができるようにしようとしていくつかの人造語が作られてきている。殺されたくないので具体的な名前は避ける。それらの世界共通語はなぜ広まらないのだろうか。
それは,それらの言葉では愛を語ることができないからである。冗談でなくそうなのである。我々には,情報だけを伝えるならば,今では,便利な手段がいろいろある。それにもかかわらず,我々が隣の国では使えない不便な自分たちの社会の言葉を使い続けるのは,その言葉でなければ,愛が語れないと直感しているからである。

言葉は自分と自分の周りの世界をつなぐ生き物である。この生き物は手段といっていいものかもしれないが,車が目的地へ向かうドライブの手段とするのとはかなり違う意味の手段だ。そこで,ここでは「生き物」と言ったのである。言葉は話す人の心の中を伝える手段である。ところがこれがやっかいで,伝えようと思ってもなかなか伝わらないことがある。それは,話し手と聞き手が同じ概念を持っていないと通じないからである。スイカが嫌いな人に,キャンプでスイカを食べたときの感動を伝えようとしても伝わらない。話し手と聞き手が同じ概念を持っていないからである。真っ赤な夕日を見てなんて美しいのだろうと思った人と、真っ赤すぎて不吉だと感じた人が,並んで話をしても話が通じない。こんな風に言葉とはお互いが理解し合えるための道具にもなるが,必ずしもそうとは限らない場合もある。しかし,真っ赤な夕日を見て不吉だと思った人が,自分の好きな人に夕日を見るたびに「夕日がきれい」といわれ続けたら,その人も「夕日がきれいだ」と思うようになるかもしれない。この意味では,言葉は手段ではなく生き物といったほうが適切かもしれないのだ。
つまり,生き物を作ることができないと同じように,言葉も作ることができないのである。言葉を使うということは,心の中を伝えようとしたり,自分と周りの世界をつなぐためだったりするためである。みんな常に変化し続けるものばかりである。それを「作る」のは不可能だ。世界共通語ができるとしたら,今あるような目に見えたり聞こえたりすることができる言葉ではない。テレパシーのように,直接,お互いが思っていることがわかるようになるときであろう。机を「机」と言っても「desk」と言っても概念や意味は同じだ。そのイメージを相手に直接送って相手がそれを受け取って理解するという具合に話ができるようになったとき、世界は今ある言葉を捨てるときである。そのとき人類はどうなっているのだろう。














  


 


2011/4/1

▲ページTOPへ