・4人の仲間 〜その1 George Keltosとの出会い〜

 前回の「It's too late」より3ヶ月前の1983年4月末のことであった。Dr. Codyという意地悪な学科主任に邪魔されながらも友人の助けで奨学金を無事もらえるようになったという話に至るまでを話そう。 その前にさらにオハイオ大学での私の素晴らしい友人たちを紹介しておこう。

 まずは、George Keltos君から紹介しよう。舞台は、オハイオ州の州都コロンバスから南東に60マイルほど行ったところに人口7万ほどのアメリカの田舎町の代表といった実に退屈な街Athensがある。 我々はこの街のことをアスンズと呼んでいたが、日本語読みではアテネである。ギリシャのアテネと同じ綴りだ。そこにアスンズの誇るオハイオ大学がある。学生数は定かではないが1982年当時20,000人と言われていた。 私は82年の7月の1ヶ月間、ジョージア州ステイツボロにあるジョージア・サザーンカレッジでロータリー財団主催の研修を受けて、9月からオハイオ大学大学院言語学部修士課程の学生として学び始めた。 まず、最初に友達になったのはGeorge Keltosというニュージャージー出身のアメリカ人学生である。ジョージは言語学部の院生ではなく、たまたま、選択の単位で「言語学入門」を取りに来た学生だった。 最終的に彼は地理学を専門とすることになるが言語学部の学生としょっちゅう一緒にいて、私がやがて友達の一人となるブルースと同じ家を借りることになる。 私がジョージと友達になれたのは、なぜか知らないが彼は東洋に興味を持っていた。あとからわかったがジョージはアジアの女の子が好きだったのである。 ジョージは顔も良かったので、アジアの女の子には良くもてたし、ひっかえとっかえしたガールフレンドも一人だけ南米出身者という点を除いてすべてアジア出身者である。 ジョージにはアジアの女の子に迷信を抱いていた。どんな場面でも男の人を前面に立てて女の人は三歩下がるという生き方だというのを心底信じきっていた。 もちろんそんな人などどこを探したっているはずがない。きっと彼が大学院に入る前にアメリカ人女性に苦労したのだと思う。しかし、彼は最終的にアメリカ人女性と結婚したのでいろいろと学習した上での結論だったのだと思う。 また、その当時は保守的な家庭では、まだ、異人種との結婚に快く思っていない親も多かった時代である。このジョージには、「言語学入門」で、私がオハイオ大学で初めての専門科目の受講ということもあってずいぶんと助けられた。 授業内容は理解できたのだが、英語で初めて受けた専門科目の講義は、出された宿題を聞き落とすことがあった。担当はDr. Hubbardという若い新米教員であったが、自信なさげにモゴモゴ話すタイプの教員だった。 専門科目の授業であったから、これは宿題ですよなんて丁寧なことは言わない。講義をしている最中にいつの間にか、宿題が出されていることが多い。私は、まだ彼のような口の中でモゴモゴ言うタイプの英語をキャッチできないでいた。 授業が終わったらすぐさまジョージに宿題が出たかどうかを聞いた。彼はめんどうがらないで教えてくれた。それ以外に私生活にまで及ぶありとあらゆることについて手ほどきを受け、このジョージのおかげで米国の学生生活に溶け込んで行けたといっても過言ではなかった。 また、ジョージのおかげで日本人会と付き合わなくても寂しい思いをすることもなかった。オハイオ大学はThanksgiving Dayの前日に秋学期が終わり、次の冬学期は11月最初の月曜日から始まる。 これから1ヶ月以上、オハイオ大学のあるAthensの街はゴーストタウンになる。学生寮も誰もいなくなり、まさに、話し相手もいない地獄の生活が始まる。ダウンタウンの店はすべて5時にはすべて閉まって、5時以降は誰も歩いていない。 スーパーは24時間営業だが車がなければ行かれないような距離だ。何人かできた友達もみんな実家に帰った。ジョージは図書館でアルバイトをやっていて、まだ、帰っていなかったが、ジョージにもガールフレンドができていて毎日一緒に遊んでいるわけにもいかなくなった。 ただ、秋学期が終わるとともに寮内で知り合った日本人の院生山口さんと島津さんとアパートに引っ越し3人で暮らし始めたので少しは気が紛れていた。2件しかない映画館の映画も見つくしていた。 その当時は、インターネットもメールもない。毎日、郵便屋の来る時間にポストまで行くが郵便なんてそうそう来るはずもない。それでもジョージが見るに見かねたのか私をクリスマスにニュージャージーの実家に連れて行ってくれた。 アメリカ人家庭での初めてのクリスマスを経験した。でかいクリスマスツリーが家の中に飾られ、その周りにはジョージやその兄弟が初めてはいた靴やクリスマスギフトが飾られていた。 ジョージの父親が何をしていたのかは忘れたが、太平洋戦争時代に日本軍と戦ったという話を教えてくれた。彼は、アメリカが広島と長崎に落とした原爆に対して日本人がアメリカ人に対してどんな気持ちを抱いているのかを気にしていた。 恥ずかしながら、戦後生まれで広島や長崎の原爆のことを歴史の悲劇としてしか意識していなかった私には的確な答えは持っていなかった。このときから初めて考えるようになったといっても過言ではない。 人種差別についても教えてくれた。これは、あとからわかることだが貴重な話だった。当時はちょうどキング牧師の記念日が設けられ、現在はキング牧師の記念日は祝日になっているが、その日を祝日にするかしないかでアメリカ中が論争していた時期だった。 そういう意味では、オバマ氏が大統領になることはやはり時代が変わったのである。その頃は、世界中の目が白人と黒人との人種差別の対立に目が向けられていた。しかし、ジョージの父親は白人の中の人種差別について教えてくれた。 白人でもアングロサクソン系の白人はそれ以外の白人のアメリカ人のことを内心では差別しているという話なのだ。アングロサクソン系白人の中でもWASPがこのアメリカで成功して上層社会を形成しているという話だった。 WASPというのは、白人でもアングロサクソン系でプロテスタントのアメリカ人のことである。簡単に言うとイギリスから渡ってきたピューリタンを祖先に持つアメリカ人で、彼らは自分たちを守るために一種の階級のような社会を築いていた。 それ以外のヨーロッパの国々からアメリカに渡ってきた人達は白人のアメリカ人であっても彼らの社会には入れてもらえないでいた。ジョージの父親はWASPではなかった。 ただ、アメリカの社会はなかなかおもしろくて、WASPを頂点とするピラミッド型の社会がある一方、多種多様な人種が頂点をなしているピラミッド社会がたくさんあった。ここは日本とは違うところである。 日本の社会にはピラミッドが一つしかない。それにくらべて、アメリカはアメリカンドリームというどん底から這い上がって大成功をおさめるというチャンスを人々に残しておくためにピラミッド社会がたくさんできていた。 ジョージの父親の論法は分かりやすかった。自分の家庭はWASPではないが、息子には成功してもらいたいので大学にやっているというのである。
 こののち、ジョージとは折に触れ一緒に遊んだり食事をしたりしたが、お互いに専門の授業が忙しくなって、少しずつ疎遠になっていった。もちろん、同じキャンパスの中で出くわすこともしばしばであったので疎遠になったとはいえ、立ち話はしょっちゅうしていた。 私が日本に帰ってからもジョージから結婚の報告などで数回手紙が来た。私は極めて筆不精で必ず来るカードにも返事を出さなかったから、いつの間にか音信不通になってしまった。今になって後悔している。 そろそろ、オハイオ時代の住所録を探し出して実家のほうに手紙を出してみようかと思っている。できれば日本に呼んでお世話になったお礼もしたいものだ。
(つづく)


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