・4人の仲間 〜その4 夏の集中講義、そして山田さん〜

 感動的な春学期が終り夏休みに入った。この時期のオハイオ大学の構内は夕暮れ時になると蛍が輝き始める。 緑色の芝生が日没とともに濃いグリーンに変わるにしたがって何千匹いや何万匹かもしれない蛍の輝きが増してくる。 それはみごとなものであった。23年後の今も蛍が変わらずまばたくような環境であるかどうかは卒業以来行ってみていないのでわからない。 大部分の学生は実家に帰り、再び街はゴーストタウンとなった。冬休みのときと違っているのは、言語学部の学生は全員残っていることである。 言語学部だけ夏休みに必修科目があったからである。言語学部のアメリカ人院生は、語学学校のTAとして雇われている。 だから、学部が経営しているESLのクラスに言語学部の学生を使う関係で帰ってもらっては困る事情があったので故意に夏休みに必修科目を開講しているのである。 オハイオの夏は暑かった。朝の8時頃になるともう夏の太陽が照りつけ始める。夏の必修科目の一つは例の統語論Tの続きで統語論Uが開講された。 暑いので、朝の8時から授業が始まり12時には授業は終わる。
 言語学部の学生によって毎晩パーティが開かれた。残っているのは言語学部の学生だけだからやることがないのである。 パーティ会場の3日1度はジョージとブルースの家が会場になった。墓地のそばに家があったため家賃が安いので借りていた。 その家がまた広い庭がついていたので、20〜30人くらいのパーティは軽く開けた。教員らも退屈なのかパーティにしょっちゅう出席していた。 我々は午後の適当な時間帯に予習をしてパーティに出る事にした。パーティは毎日夜の7時頃に始まって夜中の12時頃まで続いた。 アパートに帰るのは毎晩12時半ころである。私は、自分しかとっていない教科の予習もあったのでアパートに帰ってから2時過ぎまで予習をしてから寝た。 5時間くらい寝てシャワーを浴びて8時からの授業にまた出るという繰り返しが一ヶ月間続いた。今考えても毎晩パーティを開きながら、講義にも出るなんてことがよくできたものだと思っている。 予習だって、辞書をひいていると時間がたってしょうがないから辞書なしで読み進んだ。このころから辞書なしで予習ができるようになったのかもしれない。 振り返ると、この気の狂ったような毎日を過ごした夏学期の成績が一番よかった。ある日、授業中にビチャっと何かが床にこぼれる音がした。 一斉にその音の方に全員の目が注がれた。ブルースがコーヒーを持ちながら居眠りをしていてコーヒーをこぼしてしまったのだった。 ドッと笑いがおきた。黒板に向かって一生懸命板書していたマーモも腹を抱えて笑った。彼も昨夜のパーティには出席していた。 学生の寝不足がなぜかわかっていてもそれをなじったりはしない。そんな怒涛のような生活が7月いっぱい続いて、いよいよ全員が夏休みに入った。

 それでもこの4人組は帰省しないでいたので私は毎日のように彼らの家に遊びに行った。ブルースとジョージは例の墓地のそばの家に住み、そこは場所も広いせいもあって3回に1回はそこがパーティの会場になっていた。 リンダとフィリップとポールは同じ家を借りていて、私のアパートからは歩いて20分くらいのところにあった。 私は、コンピューターの授業を選択で取っている以外は、何もなかった。けだるくて暑い夏の時間をゆったりと過ぎていた。 目的もなく街を歩いて時間をつぶしたり、バルコニーからボーっと外を眺めていたり、野外コンサートに出たり、友人のところを渡り歩いたりして毎日を過ごした。 夕食だけは4人のローテイションが続いていたから寂しいことはなかったし、別に連絡しあわなくてもどこに行けば誰に会えるかがだいたいわかっていた。

 時間は戻るが冬学期に入って、気の合う日本人の友達ができた。最近、埼玉大学から早稲田大学社会科学総合学術院に移った山田さんだった。 4人組とは別のルートの付き合いだ。山田さんも私も中学校教師出身という点で共通していた。山田さんは、International Affairsという政治学を専門にしていたような記憶をしている。 山田さんを通して言語学をダブルメジャーとしてとり始めたキャロルというすごいタイプライターの名手と知り合った。 当時はペーパーを書くのに電動タイプライターを使っていたが、キャロルはすべてタイプをうち終えてから、2回くらいマージンが往復した。 目にもとまらない速さだった。当時はやっとワープロが出現してきてなんと画期的なものができたものだと思った。 電動タイプライターだと間違えたときは訂正が大変だったが、ワープロだと修正は自由でカットアンドペーストができることに感動したものだ。
 留学中というのはどんなに充実した生活を送っていても不思議に寂しくて心が満たされないものである。 時々、無性に日本にいる家族に会いたくなったり3歳にも満たない子供を抱きしめてみたくなったりする。理由もなく落ち込んでいったりもする。 一度はオアシスと呼ばれる言語学部の近くの喫茶店でコーヒーを飲んでいたところ、北島三郎の与作が流れてきた。 放送はオハイオ大学の放送局で流している有線放送からだったから、誰か日本人スタッフがその曲を入れたのかもしれない。 日本にいれば気にも留めない曲だったが、なんでこんなところで与作をというびっくりする気持と懐かしさが同時に込み上げてきた。 まずいと思ったが時すでに遅かった。寂しさが込み上げてきてどうしようもなくなったのである。 留学中はどんな時でもある一定の心の状態を保っておくことが必要である。どういう状態かと聞かれると説明できないが、自分の今の生活のペースを簡単に変えない緊張感とでもいうのであろうか、そういう心の状態を保つ必要性がある。 独身で留学している学生はある程度ハメをはずしてノー天気な状態を楽しめるが、家族持ちはそうはいかない。 留学生活では、振り返ったり立ち止まったりしてはならない。常に走り続けていなければならない。 ひどく落ち込んで何も手に着かなくなったりすると、授業についていかれなくなったりして留学生活に破たんが生じる危険性がある。 その結果、帰国せざるをえなくなっても、だれにも理解されることはなく、後に残るのは家族に迷惑をかけたという事実だけである。 それでも何にもできないくらい煮詰まってしまうこともある。そうしたらもうおしまいである。何をしても数日は立ち直れない。 私は、そんな時は大体は日本の小説を読んだ。とにかく何にもしないで読書に没頭した。そうしている間に普通の状態に戻ることができた。 こんなことはどんな留学生にも起こりうる。山田さんとは、寂しさを紛らわすために、いろいろなことをとりとめもなく話したものだった。 たわいもないことをよく話して慰めあっていたような気がする。 コーヒーブレイクの最初の方でも書いたが、こののち17年後にPh.D.を取るためにカナダのバンクーバーにあるサイモンフレイザー大学に1年間留学した。 留学といっても大学を1年間休んでいるし、身分もサイモンフレイザー大学の客員教授ということもあってオハイオ大学の時とはだいぶ違っていたが、決定的に違うことがあった。 それは、煮詰まることはあっても落ち込んでどうしようもなくなるということはなかったのである。その理由を考えてみた。 その一つは、バンクーバーは西海岸に面していて、日本食が簡単に手に入れることができたことである。 二つ目はインターネットの発達で日本のニュースは瞬時に手に入ることである。勉強も楽しかった。 講義に出て、その準備をしていても義務感はなかった。バンクーバーでは、とにかく勉強することが楽しくて、夜中まで時間を忘れて本を読んだ。 きっとこれから自分の研究者生活が始まるというオハイオ時代と違って、自分の残り少ない人生の中で学べるのは今だという気持ちが心のどこかにあったのかもしれない。 煮詰まったら佐野洋を愛読した。また、街だったので歩くだけでも気が紛れた。このバンクーバーの生活から比べるとオハイオは煮詰まったりホームシックになったりしたら大変だった。 オハイオの空は広かった。 どこに行く飛行機かわからないが空を横切るのに随分と時間がかかると実感するくらい広かった。 オハイオ州のど真ん中で生活していると、どっちが日本の方角かなんて考えてみる気すら失せてしまう。 日本のものが手に入らなかったわけではない。韓国人が経営する店には日本の調味料やインスタントラーメンが置いてあったが高かった。 けだるいオハイオの夏も終わりを告げ、9月からの新たな学校年が始まろうとしていた。
 


▲ページTOPへ