・米国の悩み

 日本では、日本語が日本の公用語であると疑わない環境にあるために、一つの国の言語が民族にとっていかに深刻で重要な問題であるかという意識が希薄である。その国の政府がどの言語を公用語に選択するかということで紛争が起きる例は決して珍しいことではない。日本人の日本語に対する意識の方が世界的には珍しい例である。たとえば、シンガポールは、国を構成する民族の対立を防ぐために、マレー語・標準中国語(Mandarin)・タミール語・英語が公用語として定められている。
 アメリカ合衆国は、自他共に認める多文化社会であるが、一貫して同化主義政策を進めてきたこともまた確かである。つまり、先住民も従来からのアメリカ人も移住者もみんな英語を話すアメリカ人になってほしいと夢を見続けながら、それを実現できないで来た悩みがあるのである。
 悩みの一つは公用語の設定だ。皆さんは、「アメリカの公用語は英語か?」と聞かれたら、迷わず「英語」と答えるかもしれないが、アメリカに公用語はない。公用語とは、憲法にうたわれている言語の事を言う。実は、合衆国憲法には公用語はうたわれていない。お隣のカナダの公用語は、英語とフランス語であり、憲法で決められている。その意味では、日本国憲法にも公用語の記述はないので、日本にも公用語はないことになるが、アメリカのような悩みを抱えていない。
 アメリカは、本音では合衆国憲法に英語を公用語と入れたかったのだが、独立戦争の際に、フランスやスペイン・オランダに助けてもらって独立戦争を勝ち得たという立場から、英語だけを公用語とすることには躊躇したのだ。ウイキペディアには、アメリカ独立戦争に関して以下のような説明がされている:

 アメリカ独立戦争(アメリカどくりつせんそう 1775年 - 1783年)はイギリス本国(グレートブリテン王国)と、アメリカ東部沿岸のイギリス領の13の植民地との戦争である。米国では The American Revolution(アメリカ独立革命)若しくはthe Revolutionary War(革命戦争)と呼ばれ、主に英国ではAmerican War of Independence(アメリカ独立戦争)と呼ばれている[1]。この戦争によって、植民地の者達がイギリスの支配を拒否しアメリカを政治的独立に導くことに成功した。1775年、革命派は13植民地政府の全てを掌握すると共に、政治と立法を主に担当する第二次大陸会議と軍事を担当する大陸軍を発足させた。翌年、アメリカ独立宣言を発して、正式にアメリカ合衆国という国家の形を取った。
 戦争の全期間を通して、イギリスはその海軍の優越性によってアメリカ東海岸沿海を制し、海岸に近い幾つかの都市を占領したが、陸軍の兵力が数において比較的少なかったために支配地域は限られたものになった。アメリカ大陸軍がサラトガの戦いで勝利して間もない1778年、フランスがアメリカ側に付いて参戦した。スペインやオランダもその後の2年以内にアメリカ側に付いた。1781年、フランス海軍がチェサピーク湾の海戦で勝利したことが引き金になり、アメリカ大陸軍はヨークタウンの戦いでイギリス軍を降伏させ、実質的な戦闘は終わった。1783年のパリ条約で戦争が終結となり、イギリスはアメリカ合衆国の独立を認めた。

 アメリカは、とにかく英語話者でアメリカが支配されていることに神経を集中させていた。1811年には、ジェファーソン大統領は、フランス語話者が圧倒的に多いルイジアナ州に、英語話者を3万人移住させるという提案を議会に提出したが否決された。しかし、ルイジアナ州議会における文書はすべて英語にするという提案は可決され、ルイジアナ州はアメリカではじめての英語を公用語とすることを決めた州になった。連邦憲法には公用語の規定ができなかったが、独立戦争終結後、あらゆる公的な面(立法、司法、行政)で英語が事実上公用語になり、言語的同化(English monolingualizm)を成し遂げて行った。実は、この流れが連綿として現在までつついていると考えられる。
 その一つが「英語を公用語にしようという運動」であるEnglish Onlyが各州で展開されてきた。つまり、合衆国憲法で英語を公用語として定められない代わりに州の憲法で英語を公用語として定めてきたのである。Louisiana (1811)、 Nebraska (1920)、 Illinois (1969)、 Massachusetts (1975)、 Hawaii (1978)、 Virginia (1981 & 1996)、 Kentucky (1984)、 Indiana (1984)、 Tennessee (1984)、 California (1986)、 Georgia (1986 & 1996)、 Arkansas (1987)、 Mississippi (1987)、 North Carolina (1987)、 North Dakota (1987)、 South Carolina (1987)、 Colorado (1988)、 Florida (1988)、 Missouri (1998)、 Alabama (1990)、 Montana (1995)、 New Hampshire (1995)、 South Dakota (1995)、 Utah (2000)、 Wyoming (1996)、 Alaska (1998)と続き、2002年のIowa州で州の過半数を超えた。
 英語をアメリカの公用語にという法案が提出され廃案になった1923年時点では、教育言語は英語のみとした州が34州にまで達していたが、1964年の公民権法(1964 Civil rights Act)成立の原動力となったブラックパワーに追随する形で、各民族集団がエスニシティを主張し始めた結果、60年代後半から80年代にかけて文化多元主義(cultural pluralism)が先鋭化し、次第に急進的な多文化主義に変容していった。とりわけ、ヒスパニック系アメリカ人が非白人とみなされ、人種的優遇政策の対象に加えられた頃に大きな転換点が見られる。1966年には、多言語主義が力を得てカリフォルニア憲法から「英語を公用語とする」条項が削除されている。1978年移民法の第二次改正以降、アジア系・中南米系の移民(難民も含む)の増大していった。1980年には、フロリダ州マイアミ均衡のデイド郡では、カリブ海沿岸からのスペイン語話者によって、政治的・経済的・文化的に圧倒された結果に対抗するため、英語公用語化条例を可決した。この郡は、実は、1963年に全米初の2言語使用教育を導入し、73年には英語とスペイン語双方を公用語にする条例を可決していた。この結果、レーガン政権(1981−1989)には、多言語・他文化状況はアメリカ国家を分断する恐れがあるという考え方が増幅されていった。1995年2月21日には、「1995年国語法(National Language Act of 1995)」が下院に提出され、第3条で「2言語使用教育法の廃止、および教育省内に設置されている2言語使用教育・少数は言語問題局の閉局」を要求している。さらに、同法第4条では、選挙の際の投票用紙から英語以外の言語を締め出す旨を謳っている。
 このようにして、アメリカの英語公用語化運動を見るだけでも、言語を通してその国の抱えている問題が見えてくる。English Onlyに対して、English Plusを主張している州は、New Mexico、 Washington、 Oregonである。


▲ページTOPへ